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こころをよむ

 

2014年11月29日(土)30日(日)12月1日(月) UPLINK FACTORY/東京都渋谷区

遠藤麻衣、カゲヤマ気象台、岸井大輔、武久絵里、たくみちゃん、福澤香織

書くだけでなく、描く掻く欠くなど、あとをつけ残す行為は「かく」とよばれるようだ。何もかも腐食し、災害で破壊され、忘却に曝される日本において、かくことは、消えていく支持体にあてもなく行われる運命をもっている。日本語が、漢字仮名交じり文であるなど、口語よりも文語(かきことば)に特徴があるのはその運命の受容ではないか。漱石のテキストなどを用い、現代日本文語演劇を試みる。

戯曲『文(かきことば)』岸井大輔

 

日本語は漢字かな混じり文であるなど、まず書き言葉としてその特徴を捉えることができる。ならば、日本語で劇をつくるにあたり、まず、口語ではなく文語を劇にする方法を考えるべきではないか。

 

現代日本の書き言葉は、漱石にはじまる。現代の英語がシェイクスピアに、フランス語がラシーヌにはじまると言われるが、彼らは劇作家であり、口語の祖である、日本語の口語の統一に資した文学者は、特に劇作家がいないことを、木下順二は生涯問題にし、創作方言による「夕鶴」や古口語研究の成果として「子午線の祭り」をかき現代日本口語を作ろうとしたが、影響を与えることは少なかった。それは、日本語が書き言葉としてまず存在しているからであり、日本語の口語は文語の上演だからではないか。

 

漱石は、小説をかく前に、日本語・漢語・英語の入り乱れた状態で考えていたことが創作メモなどでわかっている。これは、みっつの言語が混じったひとつの思考ではない。漱石は若いころ、漢文学と英文学の統一理論をつくろうとして失敗し、小説家になっている。漱石は、どうしてもひとつの理にならない異なる思考がひとつの事態を巡って活動している状態を知っている。それをかいたのが漱石の小説ではないか。そして、漢字かな混じりの文(かきことば)はそれに適しているのではないか。漢字とかなは、異なった思考であり、それらが同一の事態を指しながら、思考として統一されないままにひとつの文となる。

 

夢十夜の第一夜は「百年待っていて、きっと会いに来るから」と言って死んだ女の墓前に百年座って待っていると、百合が生えてきて、百年はもう来ていたのだと気がつく話だ。百合は処女懐胎の象徴であることと「百」年後に「合」うとかくことは、まったく違う理だが、ひとつの事態を指している。そして、百合という文字はこのふたつを満たしている。では、これを、どのように劇にするのがよいのか。少なくとも、私たちは夢十夜を読み、百合の含意に気がつかずとも、美しいと思った。だから、上演において百合の解説をしてはならない。これは現代日本文(かきことば)を劇にするときに乗り越えられていなければならない最低限である。

文(かきことば)のつくり方

 

イメージは、主体より先にある。私がイメージするのではない。イメージから私が生成するのだ。

 

同じイメージが到来し去ることはある。

同じ順番で同じリズムでイメージが到来し去ることもある。

 

文字は、イメージである。それが音声であろうと意味であろうと。

同じ文字だ、というのは、同じイメージだ、ということだ。

文字群もイメージである。それが語であろうと文章であろうと。

文字列は、イメージが到来し、去って行くことだ。

 

イメージが身体や集団や場所に到来し去ることはある。

イメージが到来し去る速度は、イメージによって違う。一瞬で強く現れ消えて行くこともあるし、人生より長い時間をかけて弱くずっとあるものもある。

イメージが到来し、去って行くと、意味を読み取ったり、コミュニケーションが発生したりする。

 

イメージを他がどう読み取るかは、コントロールすることができない。

 

それぞれの文字において、どのようなイメージが到来するのかを調べる。

文字列には文字が順に並んでいる。そのイメージが順に場に到来し、順に場から去って行く。

到来と去ることは、それぞれのイメージの速度で起こる。イメージが現れることは、別のイメージを消すことを指示していない。

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