始末をかくプロジェクト
「始末をかく」は、2014年度から2018年度にかけ劇作家岸井大輔を中心に進めている演劇創作のための調査と実演のプロジェクト。日本に存在する習慣や倫理を、現代演劇のリソースと捉え、そのリサーチと実験を繰り返し、現代日本演劇の新たな地平を模索している。始末とは始まりと終わりのことで、掃除や整頓など「始末をつける」ことに日本の「始末を書く、描く」芸術の根幹をみつつ、しかし同時にそれは、始まりも終わりもない「始末を欠く」永遠輪廻の時間感覚の上にのってこそ可能であっただろうと考え、「始末を欠く現状で、いかにして始末を書くことや描くことができるか」探求している。
ステートメント
すべての表現は上演であり、上演とは複数人で繰り返すことのできる独立した何かを発見するための公開制作である。私は、演劇の形式について、二十年間思考と実験を繰り返してきた結果、そう考えるに至りました。複数人で繰り返すことができる独立した何かの例は、さまざまに挙げることができるでしょう。スポーツ、政治形態、あそび、経済、作品、など。それらはつまり、人間にとってどうしても必要ないっしょにいるための虚構です。演劇の社会的使命は、歴史に記されたギリシアの昔から、未生の虚構を試し思考の機会を提供することでした。人類共在の断念が蔓延する二十一世紀において、その役割はますます大きくなっていると考えます。そう、いまだわれわれは、複数人で繰り返すことができる独立した何かを探求する旅の途上にいるのです。
「始末をかく」は、二〇一三年に、日本で演劇をするとは何かを五年間思考し試行するために集まったプロジェクトチームです。同時に、私たちの二〇一八年におけるアウトプットのタイトルでもあります。その過程において、芸術ジャンルの違いを複数性の例と捉えつつ、私たちが共に在ることができるか模索してきました。言い代えれば、出自の異なるメンバー全員が自分の作品と捉えることができるひとつの何かを五年間かけてつくって来ました。そして、この問いは、共在を夢見ながら結局地球を分断している思想群を生み出した西洋語以外に基づく諸文明において鍛えられる必然があると考えています。
「始末をかく」は作品には始まりと終わりが書/描/掻かれ自律したものだと言う思想と、私たちは始まりと終わりが欠けた存在だと言う思想を架橋する実践です。最終的な上演をどう呼ぶことができるかは、観客となる皆さんのお立会いの上で発見されることでしょう。(2017,岸井大輔)
戯曲『始末をかく』 岸井大輔
欠損を引き起こす動作が欠くであり、同様に人体を掻き、水を掻く。
後に見るためにかくと、文字を書き、絵を描くことになる。
かくことは快楽をともない生死にいたる影響を持つ。
始末とは最初と最後、はじまりとおわりのことであり、うまれて死ぬことである。始末をつけるとは、型付き、掃除をし、構成を決め、決着をつけること。例えば作品は、作者が始末をつけたものである。
例えば連載中のマンガは、恐らく作者の中でも先がわからないと想像されながら読まれうるが、完結したマンガは始末がついている。だから、連載中は始末を欠いている。
始末が欠けているのは、何から欠けているのか。それは何かを書いたことにはならないのか。
始末をかくのつくり方
複数で繰り返すことのできる何かをつくる。
なるべく多くが、自分がつくったとその何かを指せるようにする。
そのために、上演・出演・再演と言う手法を使う。
上演は、複数で繰り返すことのできる何かをやってみること。
自分のつくった複数で繰り返すことのできる何かを上演することはできる。
再演は、過去に上演された複数で繰り返すことのできる何かをもう一度上演することである。他人のつくった複数で繰り返すことのできる何かの再演をすることができる。このとき、初演をつくったものと再演をつくったものが自分のつくった複数で繰り返すことのできる何かであると指せる一つの複数で繰り返すことのできる何かの上演として行うこともできる。
自分のつくる複数で繰り返すことのできる何かの一部として、他人のつくった複数で繰り返すことのできる何かを出演させることもできる。このとき、出演させられた複数で繰り返すことのできる何かをつくったものが、その状態でも自分の複数で繰り返すことのできる何かであると指せる一つの複数で繰り返すことのできる何かとして上演を行うこともできる。
他人のつくった複数で繰り返すことのできる何かに出演するためにつくった複数で繰り返すことのできる何かを上演することもできる。このとき、出演された複数で繰り返すことのできる何かをつくったものが、その状態でも自分がつくった複数で繰り返すことのできる何かであると指せる一つの複数で繰り返すことのできる何かとして上演を行うこともできる。
同一メンバーで、上演の数を限定した上で、再演と出演によって、自分がつくったと指せる複数で繰り返すことのできる何かをつくることを繰り返せば、目標に向けて遂行し続けることは可能である。
目標達成のために、再演と出演だけでなく手法を増やすことはできるし、複数で繰り返すことのできる何かをつくるものを増やすこともできる。どちらも増やされるべきである。なぜなら、なるべく多くという目標は全部を目指すことになるが、それは再演と出演だけでは不可能だからである。
あるものが、複数で繰り返すことのできる何かを、自分がつくったと指すことかどうかは、そのものによる。たとえば一般に石は何かを自分がつくったと指すことはないが、しかし石は上演に参加はする。よって「なるべく多くのもの」が「全て」となるには、この手法では足りていない。
手法を増やし続けることで、この作業は目標を遂行しているが、いつ終わるか確定はできない。始末は欠いていてつくり続けられている。そして、常に誰かがつくった何かである。